フランツリストは19世紀、華々しい超絶技巧で一世を風靡したピアニスト・作曲家です。
その作品は難しいイメージがありますが、「クリスマスツリー」は12曲の小品からなる、可愛らしい作品です。12曲の中にはそれぞれ題名がつけられています。
「クリスマスツリー」は晩年のリストがクリスマスに、孫娘ダニエラ・フォン・ビューローへ送ったプレゼントです。
当時16歳のピアノをたしなむ少女ダニエラのために書かれたこの作品は、高度なテクニックを求めず、シンプルな音遣いで描かれています。
1874年1月1日から76年1月19日年にかけて書かれ、1879年から81年にかけて改訂され、1882年、ベルリンでアドルフ・ファストナーによって、初版が出版されました。
初演はその時に泊まっていたローマのホテルの一室で行なわれ、その後プリモがダニエラ、セコンドがリストの4種連弾用に編曲されました。
リストはローマ教会のカーディナルから、イタリアのローマにほど近いティボリに立つヴィラデステ(エステ家の別荘)の数室を与えられていました。
リストはそこで「クリスマスツリー」を書きました。
リストと愛人マリー・ダグー伯爵夫人の間には、ブランディーヌ、コジマ、ダニエルの1男2女が産まれました。リストは演奏旅行などで家をあける事が多かったため、子ども達はおもにリストのお母さんに育てられた様です。
ブランディーヌは1人息子のダニエルを出産した合併症で27歳、ダニエルは結核で20歳という若さで亡くなりました。
コジマは93歳までの長生きで、指揮者ハンス・フォン・ビュロー、そしてその後リヒャルト・ワーグナーの妻となります。ビュローとの間に2人、ワグナーとの間に3人の子どもが生まれました。
ダニエル、コジマ
前列左から
アンナ・ラガー(リストの母親)
ブランディーヌ
ガバネス(家庭教師)
リストには3人の子供と6人の孫がいました。6人の孫の1人はブランディーヌの子ども、5人はコジマの子どもです。
子どもと孫は、みんなピアノ演奏を学びました。娘のブランディーヌはエチュード「マゼッパ」の素晴らしい演奏をしました。そしてコジマも彼女の子供たちもみんな、ピアノの腕前は高かったそうです。
ダニエラ・センタ・フォン・ビュローは1860年10月12日、ベルリンで生まれました。コジマとハンス・フォン・ビュローの娘、リストの最初の孫です。
ダニエラという名前は、前年クリスマスにベルリンの自宅で亡くなったコジマの弟、叔父ダニエルからもらって付けられました。ちなみにダニエラの妹のブランディーヌの名前は、前年に亡くなったコジマの姉、叔母のブランディーヌからもらって付けられています。
真ん中 ダニエラ、家庭教師(画家)
前列 イゾルデ、エヴァ、ジークフリート
リヒャルト・ワグナーの犬2匹
ブランディーヌ、ダニエラは、コジマとハンス・フォン・ビュローの子ども
イゾルデ、エヴァ、ジークフリートは、コジマとリヒャルト・ワーグナーの子ども
ダニエラとリストはとても仲が良かった様で、リストはダニエラに深い愛情を注ぎ、ダニエラはリストのそばにいて、祖父を気遣い助けています。
巡礼の年 第3年第1番 「アンジュエラス!守護天使への祈り」はダニエラに献呈されています。
アンジュエラスとは朝・昼・夜に行うカトリックのお告げの祈り、又はその時を告げる鐘のことで、冒頭に聞こえる旋律がそれです。
リストが作品を献呈したのは、6人の孫のうちダニエラだけです。リストのダニエラへの深い愛情が感じられます。
「ピアノソロよりスピリチュアル」とフランク先生お勧めの、オーケストラ版の演奏で聴いてみたください。
リストがリヒュアルト・ワーグナーを訪ねた時、ダニエラはドイツの歴史家として、イタリア・ルネサンスの研究をしていたヘンリー・ソードと出会い、結婚します。1896年の7月、亡くなる数週間前、リストは重病で2人の結婚式に出席しました。
2人は主にガルダ湖に住んでいて、そこで夫はゴージュアスなお屋敷を購入しました。
ダニエラは1914年、夫と離婚します。子どもはいませんでした。
ダニエラはバイロイトに戻り、母コジマの様に、ワーグナーの作品を広めました。
また才能あるピアニストとして活躍し、1920年には、バイロイト音楽祭の共同プロデューサーを務めました。
ダニエラのお墓は、彼女の甥ギルベルト・グラビナと一緒にバイロイトにあります。
リストが深く愛したダニエラに捧げた作品「クリスマスツリー」について、1874年この作品が初演された3年後、リストはヴィトゲンシュタイン伯爵夫人への手紙で、この曲は「若き日の感情のさりげないエコー」と述べています。
ではそんな連弾組曲『クリスマスツリー」全12曲を1曲ずつみていきたいと思います。
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